QAの活動の適切な評価とは何かを考える
はじめに
こんにちは。葛飾ブログでは2回目の投稿になりますね。
やまずんです。
今日は、おおひらさんから「QAの活動を適切に評価すること」について記事を書くようリクエストされたので書いてみます。
まず、この問いに対して、私は「難しいな」と思いました。
この話題については、身も蓋もないことを言えば、「金持ってる奴の満足でしかない」という諦観に似た感情を持っています。
この文章ではその感情に至るまでの思考を文書化してみます。
その上で、建設的な方向性を検討したいと思います。
評価の根底にあるイデオロギーの必要性
品質保証の活動を評価するにあたり、そもそも何が"良い"とみなしているかについて、自覚的になる必要があると思っています。
例えば、品質が良いとはどういう状態でしょうか。
特定の品質特性(例えばレスポンスタイム)が高いことですか?
本番環境でエラーが出ないことですか?
製品の売上が上がることですか?
日本の景気が良くなることですか?
これらが単一の指標として立ち現れることはないでしょう。
それぞれの指標は何かの現実の裏返しであることが多いです。 同時に、その集団を取り巻く状況は刻一刻と変わります。
そんな前提は言うまでもありません。
私は、もっと根本的な部分について、明確にすべきだと思っています。
何を「善」とし、何が「美」であるのか
何が「正義」であり、何が「不正義」なのか
このようなイデオロギーを明確に設定しない限り、普遍的な評価の枠組みを作ることはできず、どこかで破綻すると考えています。
評価軸の矛盾
"良い"の定義は、あるいは根本的な価値観は、どの立場で"良い"を捉えるかで全く異なります。 これらの評価軸は時に矛盾するからです。
例えば、以下のような状態です。
職業人としての視点: 事実から学び、改善を促す姿勢が優れている
集団の視点: 変化を好まない、事実を受け止めきれない集団においては、事実を突きつけよりも「適当に仕事をしているフリ」をして波風を立てない人の方が心地よく、評価される
世界の視点: 自浄作用がなく適切な分配ができない集団は長期的に淘汰されるべきであり、その意味では、集団を停滞させるテスターが、世界にとっては「好ましい存在」になる
これらの視点は多くの場合は無自覚で、時に混ざり合い、矛盾を孕んだまま、分配の形として現れていることがあります。
集団の自己認知の限界
多くの集団は、自分たちが持つ「善」や「美」の傾向性を自覚する能力を持っていないと考えています。
例えば「品質の良いものを世に出して世界を良くしたい」と掲げていても、品質保証という活動にそれを期待しているのでしょうか。
それとも単なる安心感や責任の転換、過去のトラウマの投影を求めているのか。 そもそも、集団の「善」や「美」を認知できるほど、ー特に「会社」という名前で表される集団はー対話の技術や言語化の能力は成熟しているのか。
こういった根本を問う能力を組織で成熟させることは、品質保証の専門家の担い手ー例えばQAエンジニアと呼ばれる人々ーの職責や権限を超えていることは少なくありません。
集団における政治と承認
「集団」という枠組みがこの問題を難しくさせます。
会社と呼ばれる集団の場合、多くはある一定の権限と予算がロールや人に紐づけられ、その中で品質保証活動が行われます。
ここで、特定個人が持つ承認・投影のニーズが、ある”品質指標”の向上に紐づいて立ち現れることがよくあります。
「CXOの改革によって」
「EMの差配によって」
「QAリードのAI活動によって」
ここに、会社という集団に共通に受け入れられる善や美が存在することは稀でしょう。
何かしらの活動は、しばしばその集団の構成員にとって共通する利益のためではなく、個人の承認のために利用される力学が働きます。 評価の文脈でも同様に、集団の利益ではなく、特定個人の承認を満たす活動こそが評価されてしまいます。 これはQAエンジニアだけでなく、会社という多くの集団で起こっていることでもあります。
真のニーズを探り、再構築する
少し建設的な検討をしたいと思います。
品質保証の活動が、集団の共通する価値に対して正しく評価されるには、集団の真のニーズを探るアプローチが必要になると考えます。
集団は課題解決を求めているのか、長期的な成長を求めているのか、目の前のタスクの解消を求めているのか、有名な人々が集まることを求めているのか、集団そのものを売却することを求めているのか、真に特定個人の承認を求めているのか。
集団が掲げる善は、実際の行動に移すとき、売却や個人の承認といったニーズとして立ち現れうるのです。それを認めざるを得ません。
そして、これらのニーズはその時々の状況で恣意的に変化していくものです。
ニーズに向き合うか、去るか
品質保証を担うQAエンジニアは、正しく集団のニーズに向き合うべきだと考えています。
そして、それに沿って、正しく行動すべきだと思います。
もしそれに歪さを見出すなら、そこに立ち止まって考えてください。
集団が傾向性から立ち現れる歪な善や美を持つように、あなた自身も傾向性から立ち現れる先入観で集団を見ていませんか。
あなたもまた、集団の一部であることを忘れてはいけません。
それが耐えられないなら、あなたの傾向性に合致する集団を探すのもいいでしょう。
あるいは、歪なシステムそのものを修復でもしますか?
次回、おおひらさんの意見も聞いてみましょう。乞うご期待。

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